netarts.org
展覧会場
netarts.org 2005

     

    ■ "onewordmovie"
    ■ http://www.onewordmovie.com/
    ■ フィリップ・ツィンメルマン&ビート・ブログル(スイス)

    ■ 選評−スーザン・ヘイゼン

    「絵や対話のない本なんて」とアリスは思った。「何の役にも立たないんじゃないの?」
    −−−『不思議の国のアリス』第一章より

     100点を超すウェブ・プロジェクトからなる印象的なリストを前にして、わたしが最初に行ったことは、何かウェブ・プロジェクトを魅力的にするのかという指標を明らかにすることだった。それらのプロジェクトの領域は広大であり、同僚の審査員たちとのネットでの対話は刺激的だった。しかし結局のところ、私たちの目的は、豊富なネット上の創作活動に圧倒されることではなく、何がそのプロジェクトを他より優れたものにしているのかを決定することなのだ。わたし自身が「netarts.org 2005」というプロジェクトの名称から引き出した指標はいくつかあるのだが、まず最初に、「ネット」上にだけではなく、水から出てしまった魚のように「ネット」の外部にも存在している作品を探し、それらが明らかに「ネット」の外部では「生きて」行けないと確認しようと試みた。次の指標は「アート」という用語から導かれたが、実際のところ、私たちが見たプロジェクトの多くはその指標の外部に簡単に位置付けられてしまうものであり、「アート」と呼ぶことのできないものかも知れない。このように心で篩にかけてみたが、それでもなお余りに広大な範囲が残っている。わたしの第三の指標は、私たちが既に6年近く新しい千年期に生きてきたことを理解することによって定義された。その6年間は、発表のためのスペースとしてネットを用いるだけでなく、そのパレットを豊かにする素材を集めるためにもネットを活用するアーティストたちにとっては、すばらしい期間であった。考えてみれば、多くのネットアートが、もう10年以上に渡ってわたしたちの周囲に存在してきたのである−−−あらゆるアイコン、純粋な「ネット」アートは、既に10年も生きてきたのである。そして……最後の指標は、「org」である。わたしは非営利の分野でずっと過ごしてきたので、orgというカテゴリーは居心地が良いのだ……。一見簡単そうに見えた。だがそれは、それらの指標を審査という作業に当てはめよう、と試みるまでのことだった……簡単どころではなかった。

     審査員全員が結局は同意した受賞作である「onewordmovie/ワンワードムービー」は、疑いなくこれらのすべての美点を備えている。それは新鮮で、その自らが定めた方法は高度に創造的であり、そして、完璧に非営利なのだ。そのクレジットに既に刻まれた過去の評価によって、それは既にネットの正当性テストには見事パスしていることがわかる。最大に批評的に言えば、「onewordmovie」は、単にアットホームなオンライン作品というだけではなく、ネットの外部では存在できないものなのだ。その先駆者であるI/O/Dのwebstalker (1994)、マーク・ネイピアのShredder (1998)、マーク・ダゲットのBrowser Gestures (2001)のように、それはネットの上にだけ育つことができるものではなく、生き続けるために積極的にネットに依存しているのである! この作品は、食事の間の慎ましい軽食などではなく、ヴァーチャルな、貪欲で凶暴な存在なのだ−−−他の人たちのイメージを栄養として外部から調達するだけではなく、一方でどんな特定の主題的方向性を打ち出そうともしていない。内容を決定する批評的な介入は、実際は完全にわたしやあなたに委ねられているのだ! わたしたちにとって幸いなことに、それはわたしたちに努力を求めたりはせず、googleで宿題を済ませる子どものようにとても怠惰である。「onewordmovie」は、あなたのために宿題を済ませてくれる。わたしは「Minerva/ミネルヴァ」と打ち込み、「onewordmovie」にわたしだけのミネルヴァの集合的イメージのコラージュを作らせてみた。「onewordmovie」は、それらをリムジンの魅惑的なシリーズ、女神たち、不可解な数の異なった会見場におけるマギー・スミス、ダリアに似た華麗な花、そして会議で撮影された何枚かの写真に分割して見せてくれた。わたしは、あなたがこれまでに自分をgoogleで検索したことがあるかどうかは知らない−−−わたしは、そんなに遠くない昔にそうしたことがある−−−でも、試しに「onewordmovie」に名前を入力してみて下さい。すると、作者のビート・ブログルとフィリップ・ツィンメルマンのお陰で、それはあなたの自分に対するイメージとは、全然ちがったものになることだろう!

     わたしたちは、その貪欲で凶暴という魅力を「gwei(Google Will Eat Itself)/googleは自分を食べてしまうだろう」にも見て取る。この作品は、ページを閲覧することで生ずる広告料やスポンサー料といった経済的なものを糧にしている。わたしたち全員にユーザー(クリックする人)となるように促す「gwei」は、秘密のウェブ・サイトと自身のgwei.orgでの自己宣伝を通じた、歳入を産み出すメカニズムである。その歳入は、自動的にgoogleの(株)を購入することに充てられる。それは、ネットに基盤をおいたその他の広告とは異なり、私たちがクリックすることで恩恵に浴することができるのだ。アレッサンドロ・ルドヴィコとパオロ・キリオの二人のアーティストによれば、「gwei」は売り上げをユーザー/クリックする人/社会に還元し、収入を手際よく再循環させ、彼らのスイスのEバンクの口座を通じて、『私たちの』googleの株を、「GTTP=Google To The People Public Company/googleを人々の株式会社に」という有限会社で共同所有することを目指している、と言う。オンライン広告から収益を得るという比量的なメカニズムに光を当てることで、このプロジェクトは明らかに、現在幅を利かせているネットを広告や製品紹介と結びつけるといった相関的結合を指向している。この作品は、2002年のドクメンタ11で「公開有限責任会社=PLC」として展示されたベルリンに活動の拠点を置くマリア・アイヒホーンの作品を彷彿とさせるが、アイヒホーンの会社は、その展覧会のキュレーターによっていくつか指示を受けていた。それは、1ユーロずつ負担してもらうが、利益を上げない有限責任会社になるように、というものであった。しかし、「gwei」の場合、プロジェクトはすべての人に開かれており、そしてそのオンラインでの色々な要素が相互に結びついていることで、それは実際にネットに適した事業となっている。

     次点を決めたので、お次はわたしのお気に入りだが、それは「notsosimplefragilecircus=それほど単純というわけでもない壊れやすいサーカス」である。多分、わたしがモンティ・パイソン的躾を受けたためか、あるいはわたしが初めて「不思議の国のアリス」を読んだ時にシュールレアリズムに魅了されてしまったためか、この作品は、不可解で神秘的で、そしてとても壊れやすい幼少期における思い出と関連しているように感じた。この作品の一つのシーンと次のシーンとの間の幕が下りるときには、きっと拍手しそうになるだろう−−−それぞれの動きは、魅惑的であると同様に恐ろしいものでもある。このサーカスの主人公たち−−−この独特の舞台の上に配置された、余り上出来ではないクリーチャーたち−−−は、わたしたちを欺いて勇敢にクリックさせ、物語を体験させる。わたしたちたちはこのサーカスの一つの動きさえ見逃すことはないだろう。

     「templatecinema」は、ネットアートの拡大するエネルギーのどの地点に私たちが位置しているのかを説明してくれるが、それはわたしを、何がある種のネット・アートを他よりも際だたせているのか、ということに関する自分に課した指標に立ち戻らせる。異なるメディアを混ぜ合わせ、解け合わせることで、この作品は結果として興味深いキメラとなった。日常のニュースは今mp3プレーヤーへと配信され、広告は私たちが個人的な会話を交わしているモバイル・テクノロジーへ割り込んでくる。ネットの持つ「織り合わされる」という本質は私たちの生活に浸透し、それはすべてのメディアへと触手を伸ばす。「templatecinema」は、htmlのテンプレートとjavascript、メディア・プレーヤーとが結びついた混合物だが、それは、そのような各種のメディアが一点に収束することがますます進むであろうことを反映しているのだ。ロンドンに本拠をおくアーティストであるトムソンとクレイグヘッドは、彼らのとても短い映画をテンプレート形式で見せてくれる。それぞれの映画は、始まる前に白黒のイントロと雄牛の目のようなカウントダウンが長々とおかれ、次に不手際に張り合わされた(ような)「フィルム」の白い閃光が走る。「templatecinema」は、私たちを個人的なホームシアターでもてなすが、わたしたちは何がその番組に映るか、そして、いつポップコーンを補給するかを自分で決めねばならない。その簡潔なインターフェースは驚くほど新鮮であり、数回クリックするだけで(そして高速回線も必要だが)、私たちはソファに腰を落ち着けて靴を脱ぎ捨て、映画を楽しむことが出来るのだ!

     そして、優秀作としてもう一つ紹介しておきたい。それは「confluence.org」である−−−わたしにとってそれは、世界全体を視野に入れた、魅惑的なパフォーマンス作品なのである。作者のアレックス・ジャレットによれば、「confluence.org」の背後にある力、そしてそのプロジェクトの目標は、特定の交点を訪れてその地点で記録することだ、と言う。あなたはきっと、「交点」とは一体何なのだ、と首を捻るだろう。明らかに、交点とは整数の緯度と経度が交わるところであり、当たり前のことだが、それは世界中に存在している。つまり、この惑星上のあらゆる人は、まさに彼らがいる地点に関連した写真や物語をアップロードすることが出来るのである。もっと詩的にジャロットは言う。「交点とは共に流れること。つまり人々が出会う場所なのだ。」それゆえ画像は、ある交点の数人からなる目撃者の個人的な物語とともにウェブサイトにアップロードされる。ジャレットは1996年、世界中に参加するよう呼びかけたが、彼は、例えば「北緯43度00分00秒、西経72度00分00秒」などという切りの良い数字で表現される地点を訪れるというアイデアを持っていた。では、そこに一体何があると言うのだろう−−−彼は聞き返してきた。「他の人たちは、ここが一つしかないスポットであることを理解しているのかな?」と。明らかに、世界中には64442の緯度と経度の交点があるが、それはわたしたちには行くべきところが数多くある、ということだ−−−市販のGPSセットを持って行けばよい! わたしは個人的に、彼らのオンライン・リマインダーをサポートしているし、そしてここでも繰り返したいのだが、もしあなたがあなた自身の交点を探しに行くときには−−−「写真だけは何としても撮影すること、そして足跡以外は残さぬこと」。これは、物理的な痕跡を残してはならないという義務を設けた、創造的かつ次々と追加される行為でなのであるが、わたしがこの展覧会のために美学的に興味深いものとして提示したいのは、このプロジェクトがネットの上に残すその印象的な足跡である。

    『王さまは重々しく言った。「始めから始めよ。最後まで続けるのだ。そうしたら止めよ』
    −−−『不思議の国のアリス』第12章

     ゆっくりと、時間をかけて表現を楽しみ、それからクリックして移動すること。netarts.orgは再度、わたしたちに沢山の考える材料と多くの楽しみを与えてくれた。