netarts.org 日本語のトップへ
展覧会場
netarts.org 2008
    大賞受賞作
    優秀作品
    選考委員会

     

    ■ "conch "
    ■ http://www.conch.jp/
    ■ 片山義幸(日本)

    ■ 選評−ジョン・ホプキンズ

     今年のnetarts賞の選考は難しいものだった。ネットワーク上に存在するデータの絶対的なボリュームと流通量の膨大さと、それが秘めているはずのクリエイティブな力とは、必ずしも比例していないように思える。シグナル対ノイズの比例は漸近線上の限界に達し、ネットは、そのつくり手たちの創造的な可能性を実現することにおいて飽和点に達してしまったのだろうか?それとも不幸にも消費し続ける観客のほうが飽和点に近づきつつあるというだけのことだろうか?もはやネットは、グローバル資本主義のいいなりの、ただの氾濫したコミュニケーションのプラットフォームなのだろうか?無駄にひねくれて考える必要はないのだろうが、“テクノマディック”なキュレーターとしては、テクノロジーが常に介在する世界のつながりが進む傍ら、それがもたらすであろう人の生活の変化は、みるみるうちに魅力を失ってきているように思える。一方、クリエイティブなキュレーターとしては、テクノ・ベンチャー資本家たちが提供してくる新しいツールを用いて、いかに新しいことをやっていくか、という問いが残されているように思える。例えば、どのようにしてポップに遍在するWeb2.0の陳腐さを回避すべきか、ということ。まれに、あたかもWeb2.0のパラダイムを乗り越えたと思われるものが現れて驚かされるのだが、最終的にはベンチャー資本家たちの病的なまでの商売行為の一部だったことが判明する。本当に心を揺さぶるものは、ネット上のどこを探せば見つかるのだろうか?そんなものは本当にあるのだろうか?恐らく存在するのだろう。しかし、我々は物質を捨て、“機械の中の幽霊”を探さなくてはいけない。

     形ないものはどこにあるのだろう?形而上学にあるものが実際に存在するという証拠や痕跡は、物質的なテクノロジー・ネットワーク上の、どこに隠されているのだろう?そもそも本当に存在するのだろうか?それともそんなものは最初から存在しなかったのだろうか?グローバル・ネットワークにおいてテクノロジーは、言葉で説明できない本質的なものを自らの性質から取り払ってしまったのであろうか?テクノロジーは実際、本質的に有形的・物質的であるのは明らかで、他のモノの形をして、限られた感受性を持つ我々の前に姿を現してくる。しかし、我々の手の届かない混乱したネットワークにおいて、我々を惹きつけ、モニターに映るものに夢中にさせているものは何なのだろうか?厳粛さに満ちて我々の視線を釘付けにし、姿勢すら変えずに見つめさせる要因は何なのだろうか?

     何がこの重力のような力で引きつけ、そのフィールドでアクションを起こさせるまでに至らせるのだろう?当然ながら我々は光に魅了される。しかし、我々の意識を引きつけているのは重力的なものなのだ。機械の中の魅力は、それそのものの中にあり、我々鑑賞者の中にあるのではない。我々はコードで作った濃密な慢心を、我々が創造した宇宙の重力の中心として、その軌道をぐるぐると巡る。コードがなければ、そこには空気と蒸気、放出される(豊かな)炭化(水素)や他の酸化還元反応があるだけの裂け目しか存在しない。

     大賞は、言葉で説明できない上品さを持った作品に贈られる。この作品は項目に分けられ、シンプルであり、コードをいくつかの方法で使用しながら、時間や空間を単純化された視覚的要素に変換させている。我々はこれを見ている間に、すんなりとコードの軌道を回れてしまうかもしれない。そうして時間が経過する。生きているとはそういうことだ。

     他の入賞者たちは、コードを表現する手段を見つけ出しているといった具合で、訪問者の中には首をかしげてページを去っていってしまう人も居るだろうと思われた。それでも、これらひとつひとつのプロジェクトに見られる試行錯誤は、ネットワーク・コード版の“禅問答(公案)”のようなものであると考えたい。“悟り”をひらくためには、ひとつひとつのコードがひとつひとつの歩みとして必要不可欠なのだ。

     幅広い自由な解釈のために、Miguel LealとLuis Sacramento による作品”clouds of clouds”は空を広く開放し、Ethan Hamによる”Self-Portrait”は自己を広く開け放っている。そしてインターネットに異議をとなえる”thedisagreeinginternet”では、幅広い解釈のためだけでなく、根本的な問いかけ、さらに公然とした拒否を受け入れるためにコードを巡る軌道を開放している。ベンチャー資本家たちに黙従しているだけではだめだ!ということだろうか。

      最後の映像が最後のスクリーンに映し出されたときに、恐らく我々は、コードとは機械を追い払う呪文であるということに気づくのだろう。そして機械の中にいた幽霊は(そして我々も!)、機械の束縛から自由になり、別の新しいことに取りかかることができる。今後に期待している。

    2008年11月4日

    アメリカ合衆国アリゾナ州プレスコットにて