カオスの神話
Chaos
Myths
眼に見えないカオス(ポ・テ・キテア)*
なにものも備えず、なにごとも起こらぬ、
まったくの闇としてのカオス
触れることができず、触れてはならないもの
−−マオリ族の詠唱
[*po-te-kiteaを逐語訳すると「なにものも見られない夜」]
カオスは空の山の頂にとまる。つまりそれは、黄色い袋あるいは赤い火の玉にも似た巨大な鳥であり、六本の脚と四枚の羽根を備えている−−顔を持たないが、踊り、そして歌う。
あるいは、カオスは黒い長毛の犬であり、見ることも話すこともできず、五臓を欠いている。
底知れぬ「深淵」であるカオスがまず最初に現れ、次に「地球/ガイア」が、それから「欲望/エロス」が出現する。この三者の後に、二つの組合せが続く−−エレボスと年老いた「夜」、そして「エーテル」と「昼光」である。
一 そのとき無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなか りき。何物か発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水
は存在せりや。
二 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識もなかりき。か の唯一物は、自力により風なく呼吸せり。これよりごかに何ものも存在せざりき。
三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なりき。 空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力より出生せり。
四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意の第一の種子なりき。詩人らは熟 慮して心に求め、有の親縁を無に発見せり。
五 彼らの縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者あ りき、能力ありき。自存力は下に、許容力は上に。
六 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ。この創造はいずこより生 じ、いずこより。神々はこの創造より後なり。しからば誰がいずこより起こりし
かを知る者ぞ。
七 この創造はいずこより起こりしや。そは実行せられたりや、あるいうはまた しからざりしや、−−最高天にありて監視する者のみ実にこれを知る。あるいは
彼もまた知らず。
−リグ・ベーダ
[辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』(10.129)、一九七〇年岩波書店]
「カオスの大海」であるティアマト[バビロニア神話の女神、竜の姿をした原初の海の化身]は、子宮から「沈泥」と「粘着物」を、「地平線と水平線」を、「天空」を、そして水のような「知恵」とをゆっくり滴らせる。これらの子孫たちは成長すると、やかましく傲慢となる−−ティアマトは、彼らの絶滅を思いやる。
しかし、バビロンの戦争の神マルドゥックが、「年老いた魔女」と彼女の「カオスの怪物たち」、地下の神々のトーテム−−「地虫」「女食人鬼」、「巨大な獅子」、「気違い犬」、「蠍男」、「大嵐」−−神のような威光をまとった竜たち−−に対する反乱を起こす−−そしてティアマト自身は巨大な毒海蛇である。
マルドゥックは、ティアマトが子どもたちに父親に対する謀反を起こさせたとして告発する−−彼女は、「霧」と「雲」、つまり無秩序の原則を愛するのだ。マルドゥックは、最初の統治者、政府を発明する者となるだろう。その闘いの最中、マルドゥックはティアマトを殺し、彼女の死体から物質的宇宙を整える。彼は「バビロン帝国」の幕を開ける−−そしてティアマトの近親相姦によって生じた子どもの、さらしものにされた身体と血塗れの腸から、マルドゥックは諸神の安楽に永遠に奉仕するためのものとして人間を創造する−−そして、彼らの指導者と、聖別された王たちを。
父なるゼウスとオリンピアの神々は、母なるガイアとタイタン族に対して闘いを挑むが、タイタン族とはカオスのパルチザンであり、狩猟採取、目的のない放浪、両性具有といった旧来の風習であり、野獣の気ままさなのである。
アモン=ラー(神)は、自慰によりその他すべての神々を創造しながら、ヌーヌー[大海の神]の原初的な「カオスの大海」の中に独り座している−−しかしカオスは、ファラオが無事に統治するために(その栄光の状態、その影と魔法とともに)ラーが破壊せねばならない竜の邪神アポーフィスとしても出現する−−「国家」の、そして宇宙的な「秩序」の敵を呪うために、「帝国」の寺院で日々儀式的に再創造される勝利である。
カオスは中国の「混沌」、「中心の皇帝」である。ある日、南海の帝倏(Shu)と北海の帝忽(Hu)(〈Shu
hu〉=稲妻)とが「混沌」のもとを訪れたが、混沌は彼らを手厚くもてなすのが常だった。その厚意に報いようと彼らは言った。「すべての存在には、見るため、聞くため、食べるため、排泄するため等の七つの孔がある−−しかし、この貧しく老いた「混沌」は何も持ってはいない! では、いくつか彼に穴を開けてやろうではないか!』。そして、彼らはそうした−−一日に一つの孔−−七日目に至り、カオスは死んだ。
しかし……カオスは巨大な鶏卵でもある。その内部には盤古が生まれ、一万八千年のあいだ成長を続ける−−最後にその卵が割れて、天と地へと弾けたものが陽と陰である。今や、盤古は成長して宇宙を支える円柱となった−−さもなくば彼は森羅万象と〈なる〉(息→風、両目→太陽と月、血液と体液→河と海、髪と体毛→星と惑星、精液→真珠、骨髄→硬玉、彼に取り付いた蚤→人間、等々)。
でなければ、彼は半人半獣の帝鴻となる。それでなければ彼は老子、すなわちタオの予言者となる。事実、貧しく老いた「混沌」はタオそれ自体なのだ。
「自然の音楽は事象の外側には存在しない。多様な開口部、管、溝、そしてすべての生きる存在が共同して自然を造り上げている。「わたし」というものは事象を生み出さずまた事象は「わたし」というものを生み出さず、「わたし」というものはそれ自体で存在するものなのだ。事象とは自然発生的なものであり、他の何物かによって引き起こされるものではない。すべては自然であり、なぜそうなのかを知らない。一万の事象は一万の異なった状態なのであり、全てはあたかもそれらが彼らを動かした真実の主であるかのように動く−−しかし、もしわたしたちがこの主の証拠を捜し求めても、何も見つけることはできない。』(郭象)[この部分英語訳からの重訳]
すべての実現された意識は一人の「皇帝」であり、その唯一の統治形態は、自然の自発性を、つまりタオを妨げることを何もなさないことである。「賢者」はカオスそれ自身ではなく、むしろカオスの高貴な子どもなのである−−盤古の一本の体毛、ティアマトの怪物じみた子どもの一片の肉なのだ。「天と地は」と荘子は語る。「わたしと同じ時に生まれたものであり、そして万物はわたしと一体なのである」と。[同]
存在論的アナーキズムは、タオイストのまったくの静観主義とだけは相入れない傾向にある。我々の世界では、カオスはより若い神々、モラリスト、男性優越主義者、銀行屋のような司祭、農奴に相応しい領主たちによって転覆され続けてきた。謀反が不可能だと判明したならば、その時には少なくとも、一種のアングラの精神的な聖戦(ジハード)が開始されることだろう。アナーキストの黒い竜の戦旗に、ティアマトに、「混沌」の後に続こうではないか。