第四コミュニケ
世界の終わり
The End of the World
 
 
 AOAは、自身が「世界の終わり」に〈飽き飽きしている〉ことを公式に宣言する。その正典は、相互確実破壊(Mutual Assured Distruction=MAD)への恐怖へ、そして我々のスーパーヒーローである政治家たち(唯一、致死的な「緑色のクリプトン光線」[TVの「スーパーマン」を殺すことのできる光線]を操ることができる者たち)へのしおらしい隷属へと我々を萎縮させておくために、一九四五年以来用いられてきているのであるから……
 我々がこの地上の全生命を絶滅させることができる方法を発明したことは、何を意味するのであろう? 大したことではないのだ。我々はそれを、我々自身の個人的な死を観想することからの逃避として、〈夢に見て〉来たのである。我々は、もやは顧みられない不死のイメージの逆像としての役を果たす、一つの象徴を作り上げたのだ。発狂した独裁者の如くに、我々は〈すべてのもの〉を自分たちと共に「奈落」に落とすことを考え、恍惚としているのだ。
 黙示録の偽典/外典は、滅亡への、ホロコースト以後の世界における楽園(エデン)への淫らな渇望を伴っているのだが、その楽園では、生存主義者(サヴァイヴァリスト)たち(あるいは『ヨハネ黙示録』の選ばれし一四四〇〇〇の人々)が、二元論者のヒステリーのお祭り騒ぎ、魅惑的な罪との果てしない最後の対決に耽ることができるのである……
 我々はルネ・グェノン[1886-1951、フランスの思想家。神秘主義や宗教についての著作がある]の幽霊を見たことがある。死体のようでいてトルコ帽を頭に戴き(『再生』[1932年の作品、原題"The Mummy"]でアーディス・ベイを演じたボリス・カーロフのように)、「文化」と「宇宙」との死のためにうるさくざわついたアブラムシの聖歌を奏でる「単調な産業騒音」の葬列のロック・バンドを先導していたそれは、すなわち感傷的ニヒリストの最も極上のフェテシズムなのであり、「性以降(ポスト・セクシュアル)の」似非知性人のグノーシス派的な自己嫌悪なのである。
 これらの侘びしいバラードは、「進歩」と「未来」に関するあらゆる嘘と決まり文句−−「コンセンサス」の世界においてはあらゆる拡声器から放射されていて、あらゆる教科書とTVからの誇大妄想的な脳波のように感動的なもの−−の単なる逆像なのだろうか? 「ヒップな千年至福説信奉者たち」のタナトスは、膿汁のように「消費者と労働者のパラダイス」の偽りの〈健康〉から吹き出すのである。
 脳の両方の半球体を用いて歴史を読むことができる者は誰でも、あらゆる瞬間に世界が終わりを迎えていることを知っている−−時間の波は、閉じられて化石となった過去のひからびた記憶だけをその背後の岸辺に打ち上げ、通り過ぎて行く−−それは不完全な記憶であり、既に滅ぶべき定めにあり、初老期を迎えているものである。そしてすべての瞬間は、世界を生み出してもいる−−身体が麻痺したまま成長した哲学者と科学者の揚げ足取りにも関わらず−−すべての不可能性が息を吹き返す現在、そこでは、過去への哀惜と未来への予感は、一つの黙示現在主義的(presential)でホログラム的、心理マントラ的な身振りの中で色褪せ、無に帰すのである。
 「規範的な」過去、あるいは未来における宇宙の熱力学的な死は、我々にとっては昨年のGNPあるいは国家の衰退と同じ程度のわずかな意味しか持ち得ない。すべての「観念的」な過去、未だに到来しない未来のすべては、単に、色鮮やかな現実全体の我々による意識を妨害するだけのものなのだ。
 あるいくつかの宗派は、この世界(あるいは「ある」世界)は〈既にいわゆる終焉を迎えた〉と信じている。エホバの証人たちにとっては、それは一九一四年に起こったことである(そうとも、皆さん、〈今〉我々は黙示録の時代に生きているのだ)。ある種の東洋の神秘主義者たちにとって、一九六二年の「惑星直列」のあいだに世界は終焉した。フローラのヨアキムは聖霊の「老年期」を主張したが、それは「父」と「子」の時代に取ってかわるものであった。アラムートのハッサン二世は「大いなる復活」を主張したが、それは終末の内在化であり、地上のパラダイスである。涜神の時代は後期中世のどこかで終わりを迎えた。それ以来、我々は天使の時代を生きてきた−−我々の大部分がそれを知らないだけである。
 もしくは、より「急進的な一元論者」のスタンスをとるならば、次のようになる。すなわち、「時間」などは決して始まらなかったのである。カオスは決して死んだりしなかったのだ。「帝国」は決して創設されはしなかった。我々は、今もまたかつても過去の奴隷、あるいは未来の人質などではないのである。
 我々は、「世界の終わり」は〈既成事実〉(fait accompli)であると宣言されるべきだと提起しているのだが、その正確な日付は重要なことではない。一六五〇年代の原始メソジスト教徒たちは、千年王国が〈今〉それぞれの魂に到来すること、そして魂はそれ自体に、それ自身の中心性と神性とに覚醒することを知っていた。「喜べ、同胞よ」というのが彼らの挨拶であった。「すべては我らのものなり!」

 わたしは、それ以外のどのような「世界の終わり」にも関与したくはない。一人の少年が通りでわたしに微笑む。黒いカラスがピンクの木蓮にとまり、オルゴン集積機&発射機のように、瞬時にして街中に響く声でカーカー鳴いている……夏が始まる。わたしはあなたの愛人かも知れない……だがわたしは、あなたの千年王国に唾を吐く。

NEXT