『……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやってきて、大地を祝いの日にするでしょう……時間(ひま)は存分にはないでしょう……」
 −−ニーチェ(コジマ・ワーグナーに宛てたその最後の「錯乱した」手紙より)
 [塚越敏・中島義生訳『ニーチェ全集 別巻U』一九九四年、筑摩書房]
 
 
海賊のユートピア
Pirate Utopias
 
 一八世紀の海賊船や私掠船は、地球にまたがる「情報ネットワーク」とでも言うべきものを創り上げていた。原始的で、何よりも残酷なビジネスのためのものではあったが、そのネットはしかしながら見事に機能していた。点在する島々や人跡まれな僻地がそのネット上のいたるところにまき散らされ、そこでは船は飲料水や食糧を補給することができ、略奪品が贅沢品や生活必需品と交換された。これらの島のいくつかは「目的をもった共同体」を維持しており、それら小規模なコミュニティーのすべてが、たとえそれが短くとも幸福な生活のためだけであっても、意識的に法の埒外に生き、それを継続することを心に決めていたのである。
 何年か前にわたしは、それらの文化的小領域(エンクレーヴ)を取り上げた研究を見つけようと、海賊行為に関する二次資料の山を渉猟していた−−しかし、それらが分析に値することを発見した歴史家は、これまで存在しなかったかのようであった(ウィリアム・バロウズも、イギリスのアナーキストである故ラリー・ロゥと同様に、その主題に言及している−−しかし、体系的な調査はなされてこなかった)。それでわたしは、一次資料へと引きこもってわたし自身の理論を構築したのだが、それらのいくつかの局面はこのエッセイで論じられるであろう。わたしは、それらの居住地を「海賊のユートピア」と名付けた。
 近年、サイバーパンクのSFの旗手の一人であるブルース・スターリングは一つの近未来小説を発表したが、それは政治的システムの崩壊が生存に関する諸実験の分権的な拡散をもたらす、という推定に基づくものであり、それらは、労働者自身が所有する会社、「データの海賊行為」のための独立した小領域、「自然保護団体による社会民主主義的な」小領域、ゼロワークの小領域、アナーキストの解放ゾーン等である。この多様性を支える情報経済が「ネット」と呼ばれる。それらの小領域が(そして彼の著作のタイトルもまた)、〈ネットの中の島々〉[スターリングの同名の作品は、小川隆訳一九九〇年、早川書房]である。
 中世のアサッシン派は、人里離れた渓谷や城のネットワークからなる一種の「国家」を創設したが、それらは何千マイルも離れ、侵略に対しては戦略上難攻不落で、密使による情報の流れにより結び合わされ、戦時においてはすべての支配権力と結び、そして、ただ知ることにのみ捧げられたものであった。スパイ衛星の登場によってその頂点を極めた近代テクノロジーは、この種の〈自律〉をロマンティックな夢にしてしまう。海賊の島などもはや必要ないのだ! だが未来においては、この同じテクノロジーが−−あらゆる政治の操作から解放されて−−〈自律ゾーン〉の完全な世界を可能とするかも知れないのである。しかし今のところは、こうした考えは文字どおりSF以外の何物でもない−−純粋な空論である。
 現代に生きる我々は、自律を決して経験できないという呪い、そして一瞬であってもただ自由によってのみ統治されている一片の土地を求め公然と闘うこともできないという呪いをかけられているのだろうか? 我々は、過去へのノスタルジー、そして未来へのノスタルジーの双方へ屈服させられているのだろうか? 我々の誰かが自由を知る権利を主張するには、全世界が政治的操作から解放されるまで待たねばならないのだろうか? 論理も感情も、ともにそんな推測をよしとはしない。理性は、知らないものを求めて闘争することなどはありえないとつっぱね、そして心は、人類で唯一〈我々の〉世代だけにそのような不正義が訪れるという残酷な宇宙というものに対して反抗する。
 「すべての人類(あるいはすべての感情を備えた被造物)が自由でない限り、わたしもまた自由ではない」と口にすることはすなわち、一種の涅槃の無感覚へと屈服すること、我々の人間性を放棄すること、我々自身を敗者と定義することである。

 わたしは、「ネットの中の島々」に関する過去と未来の諸所説から推論することによって、ある種の「自由な小領域」が我々の時代に、可能であるだけではなく存在してもいることを示唆する証拠を我々が集めることができるだろうと信じる。わたしの調査と思索のすべては、一時的自律ゾーン=TEMPORARY AUTONOMOUS ZONE(以後TAZと略記される)の概念の周辺に結晶している。だが、わたし自身の思考に向けて総合してきているその説得力にも関わらず、わたしはTAZが、いわゆる〈エッセイ〉(「試み」という意味でのそれ)や示唆、あるいは九分通りの詩的な幻想以上のものとして受け取られて欲しいとは思わない。時折、原始メソジスト教徒的な熱狂をもって語ったとしても、わたしは政治的ドグマを構築しようとしているわけではないのである。事実わたしは、TAZを定義づけることをわざと回避してきた−−わたしは、探査ビームを照射しつつ対象の周辺を巡るのだ。結局のところ、このTAZとはほとんど自明のことなのである。もし、この言葉が流通したならば、それは難なく理解されることだろう……行動において理解されるであろう。

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