展覧会場
netarts.org 2004

     

    ■ "Ping Melody"
    ■ http://wrocenter.pl/projects/ping/index.html
    ■ Pawel Janicki (Poland)

    ■ 選評−ジョン・ホプキンズ(要約)

      インターネット・アートとは何か?

     今年のプロジェクトのキュレートリアル・スタッフにと招かれた時、わたしは幾分懐疑的だった。そのような展覧会−−−伝統的なアート・ワールドによって運ばれている、誇りっぽい遺物といった重荷を満載したそんな展覧会は、他にやらねばならないことが常にある限りある人生の一時を費やすには、あまり良い方法とは思えなかったのだ。それに加え、わたしはいつもノマド的に動き回るものだから、ネットワークに基礎を置いたアートを探し求めてそれについて思考することなんて、できたとしてもほんの時折のことに違いない。

     しかし、わたしが前から知っていた人たち−−−お互いに遠く離れたネット上での共同作業に伴う不確実性に気づいていて、これまでのアート・ワールドがインターネット・アートについてほんの少ししか理解していないことを熟知している人たち−−−と協力してのキュレーションは、このプロジェクトを興味深いものとしてくれた。で、それでどうしたのかって? 今や広大なものとなったネットを、何か眩しく光るものや魅力的な音が出るものを探して延縄を引くのか? 見かけ倒しの作品を求めて? それは絶望的な作業だ。やることは一つ、それは、わたしがいる土地で何もすることがないほんの短い時間を使い、コンテンツの日常的な流れを篩にかけることだ−−−それはつまり、遠く離れた小さなネットワークとの生き生きとしたリンクを形成するネットワーカーによる個人的にカスタマイズされた情報の流れのことであり、至る所で噴出するデータを理解しやすいレベルに保つことである。それはいつも可能であるとも限らない−−−日増しにスパムによって満ち満ちてきているこの日々においては。特にネットワーカーは、特定の一点へと注意を集中するという還元主義者的な活動を好まないからなおさらである。

     「インターネット」と、「アート」という言葉を使うプロジェクトを進めるためには、 わたしがこのところ、以下のようないくつかの言葉の第一義的な定義をどのように教えているか、ということを思い出すことから始めるのが良いだろう。

    「ネットワーク」 −−−エネルギーの弁証法的かつ持続的な交換に従事している人たちが、分散的かつ動的に配置されている状態。

    「デジタル・アート」−−−デジタルな装置によって可能となった、あるいは実現された人工物/パフォーマンス。

    「(コンピュータを用いた)インターネット・アート」−−−ネット(ネットとは何?)の上のアート(工芸品?)? インターネット? 技術的なネットワーク? 人間のネットワーク? 

    「ウェブ・アート」−−−ワールド・ワイド・ウェブの上にある固有のアート(工芸品?)(恐らく特定のネットワークのデータ空間と相互に影響を及ぼしあっているもの)

    「ネットワーキング・アート」−−−(人の/技術的な)ネットワークを利用する、あるいはそのコンセプトを使用しているアート活動−−−それらの空間を活発な表現のために用いること(他の人たちが何かを創造することができる空間を作ること)−−−ネットワークとは、社会化された人間の活動の延長なのだ。

     これらの定義を熟考することによって、創造的な活動が起こるかも知れない、あるいはその余地がある特定の空間が示唆されてくる。それはまた、むしろ、創造的な活動の異なった形態を示唆しているし、あるいは、伝統的に行われてきた素材によるアートの分類という概念は、ネットワークの中に存在している創造的な示威行為を理解する助けにはならないであろうことさえ示唆している。

     これらの定義は恐らく、「ネットの上のアート(アート・オン・ザ・ネット)」と見なされてきたものの大半を無視することになるだろう−−−それらのサウンド、静止画、動画、そしてテキストは、非常に伝統的なアートの形態の延長線以上の何ものでもない工芸品なのだ。ではしかし、そのような一見すべてを網羅するような堅苦しい形式論を超えて残るものは、一体何なのだろうか?

     工芸品以上のもののための可能な空間とは、その直接的な活動が、この世界におけるあらゆる存在や人間と同様に束の間のものである、創造的な実践の集合体だろう。

     今年のコンペティションの受賞作品である"Ping Melody"は、人生のように束の間のものである。人間は常に、インターネットという技術的にネットワークされた空間を設定し直し続けている−−−インターネットという空間は、この世界の人類というより巨大でダイナミックな社会的なシステムの中に埋め込まれているからだ。この常に接続され、切断されるという流動性は、この巨大なネットワークを横切ろうとする個々の人々の間のエネルギーの移動経路を支配している。それらの経路は、戦時において敵艦から跳ね返ってくるソナーの音である「ping」という音の名で今は呼ばれているもの内にその源を追うことが出きるだろう。電気通信学の意味で「pingを打つ」とは、社会的に構成された人間の/技術のネットワークの内部へと、小さなデジタルのシグナルを送り込むことである。pingは、ネットワークの中の特定の遠い地点に向けられており、そしてその遠隔地点がアクティヴであればそのシグナルはその発送元へと「反射」される。基本的には、そのシグナルが辿る経路は、ネットワークの束の間の(そして人間的な)接続の直接的な現れであり、理想的なネットワークとは、ネットワークの中のあらゆる地点がそのネットワーク全体の情報を含むことができるように、ある束の間の状態の情報がネットワークを通じて配送されるというものである。従って、ネットワーク空間を通して追跡された経路は、社会的なネットワーク全体のその時点でのエレガントな表現であるのだ。その状態の情報をライブの音によるパフォーマンスに組み入れることは、ダイナミックな状態という豊かさを、そのネットワークにおける一人の人間という交点、つまりはこのアーティストという創造的な潜在力との並置に与えている。これは、最も基礎的な形でのネットワークでのコラボレーションである。

     次点となった作品の一つ、Gridcosmは、参加が可能な空間というものをより明確に探求しており、いくつかの批評的な要素も同時に認められる。それはつまり、そのコラボレイティヴな空間のコンセプトとプログラマーたちであり、その定義された空間に参加して相互に影響を及ぼしあう人々であり、そして、その結果としてその空間から紡ぎ出された産物である。

     それはまさしく−−−個々の交点、そして協同する人間のネットワークの間の−−−相互作用なのであり、そのことはそれらの作品をして、上で提起したような「ネット・アート」の定義の縮図としているのだ。

     しかし、実際のアートとはどこにあるのか? それは概念にしかすぎないのか? 束の間の追跡、ネットワークにおける経路の中にしかないのか? Gridcosmの人工的な証拠がそうなのか? pingするソフトウェアのプログラムがそうなのか? ライブによる音のパフォーマンスがそうなのか? Gridcosmの特異なイメージがアートなのか?

     わたしはそれらの問いかけを、この展覧会を訪れる人たちに考えてもらうべく残しておこう−−−それにあたっては、ネットワークは創造的な活動のための現場であり、ネットワークは創造的な制作の手段であり、そして、「インターネット・アート」は人々同士のつながりの力学にほぼ等しいものであるということを忘れないで欲しい。

    John Hopkins

    Ukiah, California, 22.November.2004
    http://neoscenes.net