補遺B.応用快楽説
Appendix B. Applied Hedonics
 
 ボノ団は菜食主義者で、水しか飲まなかった。彼らは悲惨な(しかし個性的な)最期を迎えた。野菜と水、それ自体はすばらしいものだ−−純粋な禅も確かにそうである−−だが、それらは殉教としてではなく、直感的真実把握として消費されるべきものであろう。ラディカルな習慣としての自己否定、平等主義者の推進力、千年王国主義者の陰鬱さの趣向−−そして左派におけるこの流れは、ネオ清教徒的ファンダメンタリズムと我々のこの一〇年間におけるモラル的な反動と、歴史的な源泉を分かち合うものである。「新しい禁欲」は、たとえそれが拒食症の健康マニア、酷薄そうな唇をした警察の御用社会学者、ダウンタウンのまっすぐなニヒリスト、アメリカ南部のファシスト・バプテスト派信者、社会主義者の殺し屋、ドラッグ解禁主義の共和党員等々のどれによって実践されても……すべての場合において、その動機となる力は同じなのだ。すなわち、〈憤り〉である。
 同時代の偽善的な無感覚症に直面する我々は、悪しき意識への抵抗を続けながらもなおパーティーを催すすべを知っていた祖先や英雄たちのギャラリーを構築することだろう。彼らとはつまり、守護神的な遺伝子供給源(gene pool)、希少で定義困難なカテゴリー、「真理」のためだけではなく〈快楽の真理〉のための寛容な心、思慮深くはあるがしらけてはいない者たちなのであって、彼らの快活な気質が、彼らをして愚鈍にではなく鋭敏に、そして苦しむ者ではなく才気縦横な者としているのだ。丈夫な胃袋を備えたニーチェのような人物を創造したまえ。気の抜けた「エピキュリアン」でも、傲慢な「放蕩者」でもないのである。それは一種の精神的快楽主義であり、実際の「快楽の道程」であり、高貴にして〈実質可能な〉良い暮らしのヴィジョンなのであって、リアリティの格調高い有り余る豊かさという意味に根ざしたものなのである。
 
 コラーサーンのシュエイク・アブ・アシード
 シャルル・フーリエ
 ブリア=サヴァラン
 ラブレー
 アブ・ナワス
 アーバーハーン三世
 ラウル・ヴァネイゲム
 オスカー・ワイルド
 オマル・ハイヤーム
 サー・リチャード・バートン
 エマ・ゴールドマン

 あなた自身のお気に入りを加えること

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