第三コミュニケ
ヘイマーケット問題
Haymarket
Issue
「わたしはついでに、大衆的なゴジラ映画の連作に「ナマズ」の伝統の奇妙な再発現が存在していることに言及だけはしておかねばならないが、それは核のカオスが日本で解き放たれた後に起きたのである。事実、映画による大衆的民間伝承であるゴジラの進化における象徴的な細部が、極めて驚くべき点で、アンビヴァレントなカオスの被造物(ある映画は『モスラ』のように宇宙卵/瓢箪/繭という古代のモチーフを直接的に再生させている)との闘争という、伝統的日本と中国の神話的、フォークロア的な主題と近似しているのであり、そして、その闘いは通常、文明的秩序の破綻の後に、子供たちの特殊かつ間接的な働きかけを通じて制御されるのである。」−−ジラルドー、『初期タオイズムにおける神話と意味:カオス(「混沌」)の主題』)
古いモーリッシュ・サイエンス・テンプルの(シカゴとボルティモアの)いくつかで、友人の一人は、(天鵞絨で縁取りされたケースに入った)組み合わされた二丁の六連発銃と〈黒い〉トルコ帽とを戴せた、秘密の祭壇を見たことがあると主張した。恐らく内部社会へのイニシエーションは、新参のモール人に最低でも警官を一人は暗殺することを要求していたのだろう。
ルイス・リング[一八八六年のメーデーに、シカゴのヘイマーケット広場で起きた爆弾事件の八人の犯人の一人]はどうだろう? 彼は「存在論的アナーキズム」の先駆者だったのだろうか? 「お前を軽蔑する」−−このような感傷を賞賛しないではいられない。だが、二二歳にして絞首刑を逃れるために自分をダイナマイトで吹き飛ばした男……それは必ずしも、我々の定められた道程というわけではない。
警察の理念は、切られた首のそれぞれからヒュドラのように百の新しい頭部を生じさせる−−そして、それらの頭部すべてが〈生きている警官〉なのだ。その斬首は我々に何ももたらさず、ただ、それが我々を呑み込んでしまうまでに獣の力を強めるだけである。
まず、その理念を殺害せよ−−〈我々の内部〉のモニュメントを吹き飛ばすのである−−そうすれば恐らく……力のバランスはシフトするだろう。我々の脳内の最後の一人の警官が、最後の充たされない欲望によって撃ち倒された時−−恐らく我々の周囲の風景でさえ、変化し始めることであろう……
「詩的テロリズム」は、現実に対する唯一の実践的な蜂起戦術として、この〈原型のサボタージュ〉を提起する。しかし、すべての警察、アヤトラ、銀行家、死刑執行人、司祭等の(あらゆる手段を用いての)廃止を熱望する「シーア派の過激派」として、我々は、ラディカルで行き過ぎの「失敗した企て」でさえ崇拝するという選択肢を留保するものである。
「虚偽の帝国」の鎖から解き放たれた束の間の数日間は、相当な犠牲を払って獲得する価値があるものであろうし、高尚な実現の一瞬は、小頭症的な退屈と労働の一生に勝るものだろう。
しかし、この瞬間は〈我々のものとならねばならない〉−−そして、我々によるその所有は、仮に我々がその高潔さを保つために自殺しなければならないとしたら、酷く汚されてしまう。ゆえに我々は、我々の崇拝を皮肉と混ぜ合わせるのだ−−我々が提起するのは殉教ではなく、ダイナマイト男の勇気であり、カオスの怪物の冷静さであり、犯罪的で違法な悦びの達成なのである。
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