第八コミュニケ
カオス理論と核家族
Chaos Theory & The Nuclear Family
 
 
 リバーサイド・パークでの日曜日、「父親たち」は子供の居場所を定めると、臆病な仲間意識の元気ない魅了するような凝視により、彼らを魔法のように芝生に釘付けにし、そして何時間も野球のボールを前後に投げることを強いる。少年たちはほとんど、退屈の矢によって射し貫かれた幼い聖セバスチャンのようにも見える。
 家族の娯楽の気取った儀式は、すべてのじめじめした夏の草地を「テーマ・パーク」へと変じ、それぞれの息子を「父親」の富の無意識のアレゴリーへと、リアリティから二度も三度も消去された果ての活気のない表象=再現前へと変えてしまう。つまり、「どうでも良いもの」のメタファーとしての「子供」なのだ。
 そしてここに、わたしは夕闇が忍び寄るようにやってくる、マジック・マッシュルームの粉末で恍惚とし、目の前の何百ものとんぼが自身の意識から生じたことに半ば気づきつつ−−この何年かというもの、こいつらは皆どこにいたんだろう? なぜ、こんなに沢山、しかも突然に? −−その光り輝く瞬間から生じたとんぼたちは、精液中のエネルギーの抽象的グラフのような弧を描いて飛んでいる。
 「家庭よ! 愛の守銭奴よ! どんなにそれらを憎むことか!」 野球のボールが、宵の光の中をふらふらと飛び交い、捕球され損うと疲れた不機嫌さをにじませた声があがる。子供たちは、日暮れが今までの数時間のけちくさく与えられた自由を覆い隠そうとするのを感じるが、しかし未だ「父親たち」は、夕食の時間まで、夕闇が芝生を見えなくするまで、その家長的犠牲の気乗りのしない最終楽章を引き延ばすことにご執心である。
 それらの息子たちの中で、一人が一瞬わたしに眼を据える−−わたしはテレパシーのように、甘美な許可証のイメージを伝達する。学校、音楽のレッスン、サマー・キャンプ、TVを囲んだ家族の夕べ、「公園」で「パパ」と過ごす日曜日といったすべての檻から解放された時間の香りを−−それは本物の時間、カオス的な時間なのだ。
 今や家族が、不満の小隊が「公園」を後にしつつある。しかし〈あの一人〉が振り向いて、わたしに共犯者の笑みを投げかける−−「メッセージは受け取ったよ」−−そして、わたしの欲望によって浮上させられたとんぼの後について踊りながら遠ざかる。「父親」は、わたしの力を消散させる真言(マントラ)を吠えたてる。

 その瞬間が過ぎ去る。少年は、一週間のパターンに呑み込まれて行く−−隻脚の海賊、あるいは宣教師により虜囚にされたインディアンのように消え去る。「公園」は、わたしが誰であるかを知り、夜の瞑想のためにまさに身を起こそうとする巨大なジャガーのようにわたしの下で身を震わせる。悲しみが未だその背を掴んではいるが、しかしそれは、その最も深い本質において飼い慣らされてはいない。つまり、都市の夜の心臓部の、激しい無秩序でなのある。

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